【生肉转载】Febri TALK系列——冈村天斋

取材・文/宮 昌太朗


来源:日本深度动画内容网站Febri

采访发布时间:2023年4月3日~7日

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①キャラクターのリアリティに惹かれた

『南の虹のルーシー』

『DARKER THAN BLACK』シリーズや『クロムクロ』など、ユニークな作品を数多く手がけてきた岡村天斎のアニメ遍歴をたどるインタビュー連載。その第1回は、学生時代に夢中になったという「世界名作劇場」の一作をピックアップ。その魅力と影響について、じっくり聞いた。


ただの「いい子」ではないルーシーたちに魅力を感じた

――岡村さんは子供の頃から熱心にアニメを見ていたのでしょうか?

岡村 アニメ自体は好きでよく見ていたのですが、どんなものを見ていたのか、具体的なタイトルははっきりと思い出せないですね。当時はまだそれほど放送されている本数も多くなかったので、片っ端から見ていた感じでした。印象に残っている作品というと、『巨人の星』や『サスケ』でしょうか。


――アニメを意識して見始めたのは、どの作品からになるのでしょう?

岡村 『宇宙戦艦ヤマト』です。ただ、学校ではあまり話題になっていなかったかもしれないですね。あの頃はたしか『宇宙戦艦ヤマト』と『アルプスの少女ハイジ』、あとは『SFドラマ 猿の軍団』が同じ時間帯で放送されていて、クラスで人気があったのは『猿の軍団』だったんじゃないかな。じつは僕も『猿の軍団』を見ようと思っていたんですけど、ある日、テレビをつけっぱなしにしていたら『宇宙戦艦ヤマト』が始まって「なんじゃこりゃ!?」と(笑)。それが中学1年生のときですね。その頃は名作が本当に多くて、出﨑統監督の『ガンバの冒険』があって、高校に上がったくらいで『宝島』や富野由悠季監督の『無敵超人ザンボット3』を見て、『機動戦士ガンダム』が大学受験くらいの時期でした。


――今回、1本目に挙がった『南の虹のルーシー(以下、ルーシー)』ですが、これは大学生のときですか?

岡村 大学2年か3年でしたね。「世界名作劇場」の流れで見始めたんですけど、ストーリーにもハマりました。あと、キャラクターデザインを担当していた関修一さんの絵がすごく好きで、『ペリーヌ物語』あたりからずっと見ていました。当時のスタッフのキャラの解釈も好きでした。


――ストーリーのどんなところに魅力を感じたのでしょうか?

岡村 「世界名作劇場」の他の作品は、わりと主人公のキャラクターが「いい子」が多かったと思うんです。でも、『ルーシー』にはちょっとリアルな感じがあったというか。姉のケイトなんかも、嫌いなものは嫌いと言ってしまうけれども、根っこのところはきっといい子なんだろうな、と思えたんです。『トム・ソーヤーの冒険』のトムもそうですよね。


――なるほど。作品で描かれるリアリティが重要だったわけですね。

岡村 そうですね。大人たちの描き方もリアルで、どの大人も欠点をさらけ出してくる。ルーシーのお父さんはすごく厳格だけど、優しいよい父親なのですが、農園がもらえると聞いてオーストラリアに移住したのにうまくいかず、四苦八苦した挙句に結局、農園は手に入らず酒に手を出したりし始める。ルーシーたちの物語はそれとは関係ないところで進むんですが、そこもまた魅力的でした。子供たちは子供たちで毎回楽しく遊んでいて、お兄ちゃんが学校に行けなくて怒る、みたいな話が展開して。ウチの親父はまったくアニメを見ない人なんですが、『ルーシー』だけはどうも気になるらしくて(笑)。「あれはどうやって終わったんだ?」と聞いてきたことがありました。きっと何か、自分と重なるところがあったんだろうな、と思いますね。


オープニングの止め絵が、どれもすべてカッコいい

――岡村さんが手がけた作品に『ルーシー』の影響はありますか?

岡村 今のところはまったくないですね(笑)。あえて言うなら、僕はかわいい女の子が描きたくてアニメ業界に足を踏み入れたところがあるので、そこには影響しているかもしれません。とはいえ、アニメーターの仕事を始めてみると、キャラクターからどんどん離れてしまって、メカや物を描くほうにシフトしていったんですが……。


――そもそもの動機は「ルーシーのような女の子を描きたい」というところにあったわけですね。

岡村 その望みはしばらくかなわなかったですね。ようやく『YAWARA!』のあたりで「女の子がいっぱい出てきた!」と。


――なるほど(笑)。アニメ業界を目指すようになったのは、いつ頃のことだったんでしょうか?

岡村 それも大学生の頃ですね。大学では建築の勉強をしていたんですが、それが僕の中でしっくりきていなくて落ちこぼれ気味だったんです。そのタイミングで『SF新世紀レンズマン』というアニメ映画が作られていて。CGがたくさん使われていた作品なんですが、そのCGを制作していた会社(JCGL)で大学の友人がアルバイトとして働いていたんです。で、その手伝いとしてイメージボードを描いたりして。結局、そのイメージボードは使われなかったんですが、そこに出入りしていたときにプロデューサーの方にアニメーターになる方法を尋ねたことがあって「それならマッドハウスを紹介してあげるよ」と。


――ひょんなことからアニメ業界に足を踏み入れることになった。

岡村 当時は、そんな風に入ってくる人も多かったんです。いきなりスケッチブックを片手にスタジオを訪ねてきて「入れてください!」っていう人がいたりとか(笑)。JCGLにはビジュアル80という系列会社があって、そこは絵柄的に日本アニメーションに近かったんです。なので、個人的には「そっちのほうがいいなあ」と思っていたんですが……。


――今でも『ルーシー』を見返すことはあるのでしょうか?

岡村 何年か前にDVDを買って見返したんですが、やっぱり面白かったですね。オープニングは止め絵なんですが、どれもすべてカッコいい。そういえば、『トム・ソーヤーの冒険』もオープニングが面白かった記憶があります。『ルーシー』の監督をやられていた斎藤博さんは『巨人の星』にも参加されていたんですよね。『巨人の星』も少し前にDVDを買って見たんですが、荒木伸吾さんが作監の回の第一原画は斎藤さんがほぼ描かれていたらしく、それを知ってあらためて僕の好みの絵柄や演出スタイルの方だったんだな、と思いました。当時、もっとちゃんと追いかけていればよかったなと思いましたね。


②シンプルなのにリアルなレイアウトに驚いた

『妖獣都市』

岡村天斎のアニメ遍歴をたどるインタビュー連載の第2回は、自身もアニメーターとして参加した川尻善昭監督の『妖獣都市』。「とにかく絵を描けばいい」と思っていた岡村がショックを受けたという川尻監督のスタイルとは?


スタイリッシュな絵柄でつないだカットに「新しい流れが来た」

――大学在学中にマッドハウスに入社したということですが、当時のマッドハウスの雰囲気はどんな感じだったのでしょうか?

岡村 面白かったですよ。入った当初はお名前を知っている方はほとんどいなかったですが、今振り返ると「すごい」と思うような人がいっぱいいて。目にするのも、どれもすごい絵ばかりだったので、びっくりしていました。


――最初はやはり動画からですか?

岡村 そうですね。ただ、動画チェックの人がすごく厳しくて、なかなかOKがもらえなかったんです。で、ようやくチェックが通ってフィルムになった瞬間、CGかと思うくらい滑らかに動いて驚きました。自分で描いておきながら、なんですが(笑)。今思うと、当時の動画はレベルがすごく高かったんだな、と。そういう現場なので当然、いろいろなアニメーターの方の原画を目にするんですが、川尻善昭さんはやっぱりすごく目立っていて。梅津泰臣さんはまだあまり知られていない感じだったんですけど、他にも大橋学さんや新川信正さん、作画監督だと野田卓雄さんや大塚伸治さん、福島敦子さんもいらっしゃいました。あと、北久保弘之さんもいましたね。


――2本目は、その川尻さんが監督をした『妖獣都市』です。岡村さん自身もアニメーターとして参加していますね。

岡村 動画を2年くらいやって、ちょうど原画になった頃ですね。その前は『迷宮物語』や『カムイの剣』の動画をやっていて、初原画は『時空(とき)の旅人』なので、本当に原画を始めたばかりでアクションものの原画をまだ描いたことがありませんでした。『妖獣都市』はなによりラッシュ試写を見たときのショックがすごかったんです。


――ラッシュ試写というのは、出来上がった素材をいったん撮影して、それをチェックするための試写ですね。

岡村 「すごい作品を作っているぞ」という感じがしました。僕が作業を始める前から少しずつラッシュが上がってきていたんですが、最初に空港のシーンが上がってきて、それがすごくカッコよかったんです。アニメーションはこういうこともできるんだな、と。それこそ「新しい流れが来た」と思いました。


――それまでの作品とは、まったく違う感覚があった。

岡村 その頃までの僕は「描けば描くだけよくなる」と思って原画を描いていたんですが、決してそうではないんだなと。原画自体はワンカット・ワンアクション(※ひとつのカットで、ひとつの動きを描く手法)なんですけど、それをスタイリッシュな絵面でつないでいくんです。光やモヤの使い方も、それまで自分が考えていたのとはまったく違う感じでした。


いかに要素を引き算して、カットを成立させるかを教えられた

――動きで見せるというよりは、レイアウトやカット構成で見せていくスタイルですね。

岡村 そうですね。この作品の前に川尻さんが監督した『迷宮物語』の中の一編「走る男」は描き込みが多い作品で大変だったんですけど、それで反省したのか(笑)、『妖獣都市』は絵柄もシンプルになっていたんです。絵としてはとてもシンプルなんですが、それでもめちゃくちゃリアルに見える。「走る男」のときは車についているステッカーまで描いていたのですが――でも、上がったフィルムを見るとすべて真っ暗で見えなくて(笑)。川尻さんは『妖獣都市』でどうやってシンプルに絵を組み立てていくかをかなり考えられていたみたいで、そういう絵の作り方にも驚かされました。


――なるほど。

岡村 あと、川尻さんはものすごく手が早いんです。監督チェックでもめちゃくちゃ絵を修正しますし、むしろ全部自分で描いたほうが早いんじゃないか、と思うくらいなんですけど(笑)。『妖獣都市』のときは原画も描いていましたし、たしか作画監督もやっていたんじゃないかな。


――『妖獣都市』から学んだことで、今でも活かされていることはありますか?

岡村 カットの作り方――というか、いかに要素を引き算してカットを成立させるか、みたいなところを教えられた気がします。あと『妖獣都市』は、光の使い方が僕の好みだったんですよね。当時、スタッフはひとつの部屋に集まって作業していたんですが、隣の席がスタジオジブリに移られる前の男鹿和雄さんだったんです。その男鹿さんが、横に4フレーム分くらいあるビル街の背景美術をものすごいスピードで描いていく。手を4往復くらいさせたらもう出来ている、みたいな。


――それはまた、すさまじいスピードですね!

岡村 一気に下地を塗って、次にシルエット、その次に窓を描いていってハイライトを足したらもう出来上がり、みたいな感じで。サッとシンプルに描いて、でも綺麗かつ情報量が多く見える。「この描き方はセルにも応用できるな」と勉強させていただきました。すごい人たちは、見ているだけでも学ぶことが多いですね。


――その後も岡村さんは川尻監督とたびたびお仕事をしていますが、影響を受けている部分はありますか?

岡村 川尻さんはレイアウトが抜群にうまいんですが、結局、僕には真似できなかったですね。僕はもっさりした動きしか描けなくて、アクション系の原画があまり回ってこないんですよ。その結果、おじいさんとかおばあさんを描くことが多くなって(笑)。生活感のある作画をたくさんやらせてもらったかなと思います。


③多くの人に助けられた初監督作

『最臭兵器』

岡村天斎のアニメ遍歴をたどるインタビュー連載の最終回は、自身の初監督作であるオムニバス映画『MEMORIES』の中の一編『最臭兵器』。苦労が絶えなかったという制作の舞台裏と、この作品を通して岡村が手に入れたものとは? 当時の状況を振り返りつつ、たっぷり語ってもらった。


「自分が手がけることはない」と思っていたタイプの作品

――3本目は、岡村さんの初監督作品でもあるオムニバス映画『MEMORIES』の中の一編「最臭兵器」です。1995年の公開なので『妖獣都市』から少し間が空いていますね。

岡村 そうですね。『YAWARA!』で何本か絵コンテを描いて、そこから演出方向に舵を切っていきました。もともとアニメーターよりも演出がやりたかったんです。


――当時のマッドハウスは、若手でも演出できるチャンスが多かったのでしょうか?

岡村 というか、僕が入社した頃は劇場作品やOVAがメインで、TVアニメをあまりやっていなかったんです。だから「TVだったら(演出を)やらせてやるよ」と言われていて、それをおぼえていたんですよね。「あのとき、やらせてくれるって言いましたよね?」と(笑)。それならしょうがない……みたいな感じで。


――初めてのコンテ・演出は『YAWARA!』ですか?

岡村 そうですね。そんな感じで演出を始めたばかりの頃に、突然、「大友克洋さんがオムニバスの劇場作品を作るから、そのうちの1本を監督しろ」と言われて(笑)。それが『最臭兵器』でした。そのときすでに大友さんが書いたシナリオはあったんですが、たぶん大友さんは川尻さんに監督を頼もうとしていたはずなんです。でも、川尻さんが「自分のスタイルではないな」と思って、それで僕に回ってきたんじゃないかな。ギャグっぽいものができそうな人が他にいなかったんでしょうね。


――初めて監督してみていかがでしたか?

岡村 大変でした(笑)。僕は、大友克洋さんは手塚治虫以来のマンガ界で革命を起こした人だと思っているんです。大友さんは最初の頃、青年誌で活躍されていて、学生の頃の僕のまわりも大友さんを崇拝している人が多かったです。リアリティを突き詰めていくような描き方は、その後、アニメ界にもどんどん浸透していきましたし。


――岡村さんの世代は、大友さんの登場に直接、インパクトを受けた世代かなと思います。

岡村 ただ、個人的には「自分が手がけるタイプの作品ではないな」と思っていたんです。『AKIRA』のときも、そちら側には近づかないようにしていたし(笑)、僕はどちらかというと、少年マンガや子供向けの作品に行きたいと思っていたんですね。そうしたら、向こう側からやって来たという。


――なるほど(笑)。

岡村 僕はそれまでTVアニメしか経験してこなかったので、制作が始まってコンテを描いても「なんだこれは! TVアニメじゃないんだからさ」と叩き返されるわけです。一度、「岡村を下ろそう」という話にもなったみたいなんですけど、そこで川尻さんが「自分が面倒を見るので」ととりなしてくれて。どういうものが劇場作品なのか、その頃はまだわかっていなかったんですよね。


完成したものを見ると「意外と自分の作品らしくなっている」

――そんな中で手応えを感じた瞬間はありましたか?

岡村 いや……。ずっといろいろな人に助けられて、なんとか出来上がったという感じでしたね。ただ、出来上がったものを見ると、「意外と自分の作品らしくなっているな」とも思いました。もちろん、川尻さんが僕のいいところを残してくれたからだと思いますけど、そのときに何か自分の中で手に入れた感じはあります。あと、この作品でキャラクターデザインと作画監督をやってくれた川崎博嗣さんには本当にお世話になりました。他の人たちがみんな僕のことを遠巻きにしている中で「大友さんの仕事、やることになったんだって?」とすごく心配そうに話しかけてくれて(笑)。そのときはもう「この人と一緒にやるしかない」みたいな感じでしたね。川崎さんがリーダーとしてスタッフを仕切ってくれましたし、のちにこのときの縁がきっかけで劇場版の『NARUTO』(※『劇場版 NARUTO -ナルト- 大活劇!雪姫忍法帖だってばよ!!』)に誘われることになるんです。


――先ほど、川尻さんが「自分が面倒を見る」と言ってくれたという話がありましたが、クレジットとしては「監修」という形になっていますね。

岡村 僕が描いたコンテを見て、直しを入れてくれたりしました。しかも、それだけいろいろ手伝ってもらったのに、最後のシーンの原画を無理やり押しつけてしまって(笑)。ガスが吹き荒れているトンネルの中で宇宙服の人が歩いてくるシーンだったんですけど、そのシーンの原画を構成できる人がいないという話になったんですよ。ここはもう川尻さんしかいないと思って、お願いして。「しょうがねえな」みたいな感じで受けていただけて助かりました(笑)。


――リアルな世界観でコミカルなドタバタ劇をやるという、なかなか他にはないタイプの作品ですよね。

岡村 シナリオを読んだとき、大友さんがマンガで描いたらきっと面白いんだろうと思ったんです。でも、自分がコンテを描くとなると、どうやれば面白くなるのか、すごく悩みました。川崎さんが「怪獣映画のノリでいいんじゃないの」と言ってくれて、すごく助かりましたね。


――なるほど。当時を振り返ってみて、今でも役立っていることは?

岡村 忍耐力ですかね。頑張っていれば、いつかは終わるという(笑)。ちょっとずつでも進めていれば、いつかは終わる。手が止まったら最後なので、少しずつでも進めないと。それは今でも思います。


――人生に通じるところがありますね(笑)。のちのお仕事への影響というと?

岡村 このあとProduction I.Gに移籍したんですが、そこでは「『最臭兵器』をやった人らしいぞ」と一目置かれる感じがありました(笑)。あと、会社を移ったタイミングで『BLUE SEED』のオープニングを担当することになったんですが、自衛隊や兵器がたくさん出てくる作品だったので、そこでは「最臭兵器」の経験が役に立ちましたね。






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