【生肉转载】Febri TALK系列——村田和也

取材・文/宮 昌太朗 撮影/須﨑祐次
来源:日本深度动画内容网站Febri
采访发布时间:2021年4月5日~9日
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①その後の人生に影響を及ぼした
『未来少年コナン』
『翠星のガルガンティア』や『A.I.C.O. Incarnation』といった話題作を手がけるアニメ監督、村田和也。第1回は中学生時代に大きな衝撃を受けたという、宮崎駿の名作TVシリーズ『未来少年コナン』についてのインタビュー。
作った人の影響力によって作品が大きく変わる
――事前に、村田監督にとって特別なアニメ作品を3本挙げていただきましたが、1本目が『未来少年コナン』。宮崎駿監督の名作TVシリーズですね。
村田 僕は1964年生まれなので『未来少年コナン(以下、コナン)』の本放送のときは中学2年生でした。前情報で、NHKで初めて放送される30分枠のアニメシリーズということは耳にしていたので、気になって見始めたんですよね。
――そのときの印象というと?
村田 当時、フジテレビでやっていた「世界名作劇場」の一連の作品に、映像の印象がすごく似ているなと思いました。『コナン』の2年前に『母をたずねて三千里』が放映されて見ていたんですけど、この作品にも衝撃を受けたんですね。「世界名作劇場」なので、小さい子供が見るものだと思っていたら、作品内の世界の実在感だったり、空間の表現のリアルさに驚いたんです。線はシンプルだし、キャラクターは丸っこくて、絵柄自体はリアルとは言いがたいんですが、まるで世界がそこに存在しているように感じる。『コナン』が始まったときにも、それと同じような感覚を受けたんです。ただ、『コナン』のほうはSFで、「世界名作劇場」とジャンルはぜんぜん違うんですが。第1話の冒頭と各話のアバンで使われている、ギガントの大群が飛んでくる場面とか、世界が超磁力兵器で破壊され、大陸がみんな沈んでしまう……みたいな大仕掛け感は「世界名作劇場」にはない要素です。人類文明が崩壊したあとの世界、いわゆるポストアポカリプス的な世界を舞台に、崩壊した世界のなかで生きていく人々を描いた日本のアニメで、初めて触れた作品が『コナン』でした。
――SF的な世界観も魅力のひとつですね。
村田 初めて見たのに、古典というか、娯楽としての王道を感じたのも印象的でした。『コナン』は、次の話が絶対に見たくなる作りになっていて、「次はどうなるんだ?」とすごく気になってしまう。続きものってこうだよねっていう作り。そして30分がとても短い。引き込まれている証拠ですね……。とはいえ、途中までは「面白く」はあったけど、自分のなかではスペシャルな作品ではなかったんです。後半、話がどんどん深刻になっていくにしたがって、物語のスケールも大きくなっていく。そしてギガントが出てきたあたりで「なんだこれは!」と。「これはちょっとスゴい作品なんじゃないか」と思いながら一気にのめり込んで、そして最終回を見終わったときには、自分のなかでとてつもなく大きな存在になっていたんです。

――なるほど。
村田 出来事のひとつひとつがとても重要な意味を持っていて、物語のなかで大事な役割を果たしている。そして、それらが全部つながっている。場所やアイテム、キャラの持つ意味や関係性が、話数を追うごとにどんどん変化していく。そういったことがとても新鮮でした。ジムシィやダイスやモンスリーなど、登場したときは敵だったキャラが、対立を重ねるなかで仲間になっていく。その関係性を変えていくのが主人公であるコナンの行動とパワーで、それを引き出すのがラナの存在。キャラの関係性がとても有機的かつ立体的、そして動的に組み上げられています。メカにおいても、第1話から出てくるファルコという飛行艇は、シリーズを通じて活躍しますが、次々にその役割が変わっていく。ダイス船長のバラクーダ号(帆船)もそう。場所に関しても同様で、のこされ島もインダストリアも、一度目と二度目で違う意味を持つ。出来事そのものも有機的につながっていて、さらにその「見せ方」がうまい。たとえば、ガンボートの回(第18話)。コナンたちが火薬を仕掛けてガンボートを爆破するんですけど、このことでインダストリア側の目論見が一気に崩れ、流れが変わる。圧倒的な工業力の象徴であるガンボートに対して、手作りのタル爆弾ひとつで挑むコナンたち。その話数でたった一度の爆発なんですが、そこに至るまでの過程がとても丁寧に描かれていて、事の重要さが際立っている。次の大津波の回もそうですよね(第19話)。壊れたバラクーダ号をモンスリーたちが島民を使って引き上げさせる作業のさなか、浜では波が引き始める。異変を察知し、テレパシーでコナンに伝えるラナ。モンスリーを説き伏せるコナン。迫る津波。人間側の対立と津波の接近という自然現象が並行して進んでいく。そして津波が来てバラクーダ号が丘の上に打ち上げられ、モンスリーたちの計画が頓挫するまでを、まるまる1話かけて描く。しかも、その津波はたまたま来たものではなく、のちに起きる大地殻変動の一連の前フリとしても機能している、という。シリーズ全体を通して、すべての出来事が緊密につながっているということを、最終回を見終わったあとに強烈に感じたんです。そして、それを支える映像の美しさと動きのダイナミックさ。で、「これを作った人はスゴいに違いない!」と(笑)。
――制作者に興味が向いたわけですね。
村田 そうなんです。もちろん、それまでもアニメは人間が作っていることはわかって見ていたんですけど、作った人の力によって出来上がった作品が大きく違うものになるというのを、初めて感じたのが『コナン』でした。「すごいものを見たんだ」という印象がずっと尾を引いて、その後の自分の人生にも影響を及ぼしていますね。
――当時、熱気を共有する友達はまわりにいたのでしょうか?
村田 全然いなかったです。一度だけ、誰かに「『コナン』っていうのが面白いよ」と話したんですけど「ふぅん……」みたいなリアクションで(笑)。『コナン』が放送された1978年って、夏に『さらば宇宙戦艦ヤマト』が公開されて、世間的にはアニメの大ブームが巻き起こるんです。とはいえ、一緒に『コナン』に注目が集まるわけでもなく……。そのときに『コナン』の特集を組んだのが、のちにスタジオジブリのプロデューサーになる鈴木敏夫さんが編集に関わっていた雑誌『アニメージュ』なんですよね。宮崎さんのイメージボードを掲載したり、登場メカを取り上げたりして、「あっ、ここにわかっている人がいる!」と(笑)。あとマイナーなんですが、ブロンズ社というところから出ていた『月刊アニメーション』という雑誌。ここには宮崎さん自身の文章や、ラピュタの元になるイメージボードなんかが載っていたりして。そこで初めて、自分が「すごい」と思っていたものが本当にすごいんだと確信を持てたんです。
――村田さんはその後、宮崎さんたちが立ち上げたスタジオジブリに入りますよね。『コナン』の影響もあったんでしょうか?
村田 そうですね。ジブリに入ったのもそうですし、僕が監督した『翠星のガルガンティア』もある意味、『コナン』に対する自分なりのオマージュでありアンサーみたいなところがあるんです。
――ああ、なるほど。『コナン』と同様、文明が滅んだあとの世界が舞台だったり。
村田 僕としては、ポストアポカリプスの世界を明るいものとして描きたかったんです。いろいろあるけれども、人々が力強く生きていける場所として崩壊後の世界を描く。そこは『コナン』からの影響があると思います。海の底から遺物を引き上げて再利用する、という発想もそうですし。『コナン』の冒頭、海の底にビルが沈んでいるんですけど、上半分がニョキっと海から突き出していて、木が茂っていて。そういう風景自体、すごく新鮮だったんですよね。パッと一枚、絵を見るだけで、その景色がそこに生まれるまでの出来事の積み重ねや時の流れを感じさせてくれる。そんなアニメは『コナン』が初めてでした。

②『おもひでぽろぽろ』
日本最高峰の仕事を目にした
村田和也監督の人生に影響を与えたアニメ作品について聞く連続インタビュー。第2回は、スタジオジブリでの研修生時代に、初参加作品となった『おもひでぽろぽろ』の衝撃を聞く。
スタジオジブリでの研修、そして初めての現場
――2本目は、スタジオジブリ制作・高畑勲監督の『おもひでぽろぽろ』。村田さんも演出助手として参加していますが、村田さんはスタジオジブリに入る前に、普通の企業に就職しているんですよね。
村田 そうですね。アニメは好きだったんですけど、自分が作り手になるということに対してはリアリティがずっとなかったんです。ただ、絵を描くのは好きだし、理工系の科目が得意で空間を作るのが好きだったこともあって、大学は建築系に進みました。……そもそも空間を作るのが好きになったのは、宮崎さんの影響なんですけど(笑)。
――『未来少年コナン』の影響があったわけですね。
村田 はい。『コナン』とか『カリオストロ』とか……。ただ、いざ大学に入ってみると、僕よりも圧倒的に建築愛にあふれているヤツが同期に何人もいるわけです。最初から「建築家になる!」という気概を持って大学に入ってくる人たちがいて、その人たちの知識量だったり、建築に対する愛情の深さに自分は絶対に太刀打ちできない、と思ったんですね。それで、住宅関連の設備などを作っているメーカーにデザイナーとして就職することにしたんです。
――そうしてメーカーで仕事をしているときに、雑誌でスタジオジブリの研修生募集を見て、応募することになるわけですね。
村田 『魔女の宅急便』が公開されたとき(1989年)に、その特集記事を組んだ『アニメージュ』が発売になって、そこに募集が出ていたんです。きっと応募者も多いし、受からないに違いない。けれどジブリが募集をするのは、これが最初で最後かもしれない。だから、記念に受けてみようと。そうしたら、受かっちゃったんですよね(笑)。
――研修ではどんなこと?
村田 演出部門の研修生は、僕を含めて4人いたんですけど、最初はアニメ制作の基本工程をひとつずつ体験する感じですね。動画の中割りを自分でやってみたり、セルの仕上げの絵の具を塗ってみたり。撮影会社にお邪魔して一定期間、撮影の助手をする、みたいなこともありました。あと、課題小説みたいなのをいくつか与えられて、この作品をアニメ化するとしたらどう作るべきか、みたいなことをレポートにして提出する。それに対して宮崎さんと押井守さんが好き放題に講評する、とか(笑)。最後の課題として、あるマンガを短編のシリーズとしてアニメ化することを想定して、それぞれが1話ごと脚本を書き、絵コンテを切る、というお題を与えられたんですが、そうこうしているうちに宮崎さんが次の『紅の豚』の準備に入って、ロケハンでイタリアに行くことになり、忙しくなってしまいました。しかも、もう一方では『おもひでぽろぽろ』の現場が始まって、人手がほしいと。我々がぐずぐずしていたからというのもあるんですが、そんなわけで研修期間がそこで終わって、僕ともうひとりが演出助手として、残りのふたりが制作進行として『おもひでぽろぽろ』の現場に入ることになったんです。

――その時点で、制作はどれくらい進んでいたんですか?
村田 研修生として入社した時点では、高畑さんは脚本を書いている最中で、まだ現場には入っていませんでしたね。ただ、近藤喜文さんはキャラクターを描き始めていて、あと美術監督の男鹿和雄さんと色彩設計の保田道世さんは準備を始めていました。メインスタッフ以外は誰もいない、ガランとした状態だったんですけど、一角の準備コーナーに男鹿さんの美術ボードが貼られていて衝撃でした。山形の畑の風景だったんですけど、畑が夕日でオレンジ色に染まっている、みたいなボードで「これを手で描いているのか!」と。
――最初に、日本でもトップレベルの美術を目にしてしまった。
村田 あと、近藤さんのキャラクターデザインもびっくりしましたね。『赤毛のアン』や『名探偵ホームズ』の頃から近藤さんの絵はとても好きだったんですが、ここでは原作の絵のアレンジ力に驚きました。原作はわりとシンプルに簡略化された絵柄なんですけど、それを肉感的にふくらませて、近藤さん特有のもちっとした可愛らしさがあって。それでいて手足のシルエットなどは、強弱をおさえて絵の軽さが損なわれないようにしてある。あと、それとは別にキャラクターの服に柄があることにも驚きました(笑)。
――柄があると、作画が大変ですよね。
村田 これは大変な領域に踏み入ろうとしているぞと(笑)。僕らが研修期間を終えて演出助手として編入された頃には、もう作画スタッフが勢ぞろいしていました。『おもひでぽろぽろ』は、そもそもやろうとしていることのレベルが高い作品でしたけど、そこに集まってきている作画さんたちはみんな、『ナウシカ』から『魔女の宅急便』までの蓄積、あるいは当時の主要な劇場大作を経験したうえで、この現場に来ている方ばかりで。しかも、監督が高畑さんなので気合が半端じゃない(笑)。参加している人たちのテンションも高いから、すごいところに来たなって感じはありましたね。
――まさに日本のトップレベルの作画陣が参加していますよね。
村田 そうですね。近藤さんとか百瀬義行さんのようなベテランもそうですし、あとは大塚伸治さんのような中堅勢もそう。加えて、僕と世代的に近い近藤勝也さんとか磯光雄さんとかもいて。少し遅れて作画研修の2期生のメンバーも研修を終えて、新人動画マンとして安藤雅司くんや吉田健一くんたちが現場に合流しました。1期生には小西賢一くんもいましたし、今振り返ってみても、あのメンツが一緒にいたというのは、すごい現場だったなと思います。
――当時の経験は、今の仕事にも生かされていると思いますか?
村田 僕の仕事はほとんど雑用係みたいな感じだったんですけど、作品的に作画や撮影の難易度の高いカットが多くて、そういうカットがどうやって描かれているのか、どういう素材の組み合わせでできているのか、素材を生で見ることができたのが、その後の仕事に大変役に立っています。そしてなにより、高畑さんをはじめとするスタッフの作品や仕事に対するこだわり、熱量を肌で感じることができたということ。これはじつに大きな経験でした。

③持てる力をすべて注ぎ込んだ
『剣風伝奇ベルセルク』
スタジオジブリから独立後、本格的に演出家としてキャリアを歩み始めた村田監督。インタビュー連載の第3回は、そんな彼がOLM時代に制作に参加した高橋ナオヒト監督のアニメ『剣風伝奇ベルセルク』について。
深夜アニメ黎明期の、熱量とチャレンジ精神
――3本目に挙げていただいた『剣風伝奇ベルセルク(以下、ベルセルク)』ですが、これはOLM制作・高橋ナオヒト監督のTVシリーズ(1997-98年)。村田監督は「監督補」としてクレジットされています。
村田 僕はOLM設立(1990年)当時のメンバーのひとりなんですよ。話をさかのぼると『おもひでぽろぽろ』のあとに『海がきこえる』の演出助手をやっていた頃、そろそろ独り立ちして本格的に演出をやりたい、と思い始めていたんです。ところがジブリの中では新人演出がやれる作品がない。会社的には、次の高畑さんの『平成狸合戦ぽんぽこ』がすでに動いていましたから、そのまま残ればその演出助手をやるしかない。なので外に出るしかないんですが、当時はTVシリーズの本数が激減して、アニメ業界全体としてはOVAにシフトしていた時期で、新人演出が出ていく隙間がないと言われている時期でした。しかし、ちょうど『海がきこえる』がほぼ終わりに差し掛かるタイミングで『おもひでぽろぽろ』のときに先輩だった須藤典彦さんから「新しいTVシリーズでチーフディレクターをやることになったんだけど、補佐がほしい」と声をかけてもらったんです。
――それがOLMの前身となるパステルが制作を手がけた『剣勇伝説YAIBA(以下、YAIBA)』(1993-94年)ですね。
村田 そうですね。パステルは全部で7人くらいの会社だったんですけど、もともと小学館系のマンガ家さんのエージェント会社だったオービー企画傘下のアニメスタジオで。そのパステルのプロデューサーだった神田修吉さんとオービー企画のプロデューサーだった奥野敏聡さんが、独立して作ったスタジオがOLMなんです。
――ということは、その流れで村田監督もOLMに参加することになった?
村田 そうです。会社としては、設立してわりとすぐにTVシリーズの『愛天使伝説ウェディングピーチ』や『モジャ公』などを請けていましたが、その間、僕のほうはずっと別班で『ガンスミスキャッツ』などのOVAに参加していました。その後、会社がだんだんと軌道に乗ってきたかなというタイミングで『ポケットモンスター』が始まるんですけど、そのかたわら、高橋ナオヒトさんのチームでやることになったのが『ベルセルク』なんです。もともと高橋さんはスタジオジャイアンツに所属していて、『YAIBA』のグロス回の演出として参加されていて。高橋さんが演出、千羽由利子さんが作画監督を担当した回(第10話)がすごくよくて、OLMを立ち上げたときに「ウチに来ないか」ってプロデューサーが声をかけたんですね。
――なるほど、そういう流れだったんですね。
村田 で、いよいよ高橋さんの監督でTVシリーズをやるぞ、と。しかも深夜枠で『ベルセルク』をやる。当時は深夜アニメの黎明期で、前例がほとんどない。原作はバイオレンス描写が過激な作品でしたけど、しかし深夜枠ならできる、と。アニメで人が斬られてドバッと血が出るとか、身体がバラバラになるとかって、ゴールデンタイムだったら絶対に許されなかったんですよ。そこにチャレンジしようということになったんです。会社もこれから伸びようとしている時期で、プロデューサー的にも作中に出てくる「鷹の団」の躍進劇やガッツとグリフィスの関係性に自分たちを投影しているフシもあって。しかし、『ベルセルク』は話の内容と同じくらい作画の内容も重い原作で……。

――アクションも多いし、衣装のディテールもすごく細かいですよね。
村田 なので、監督ひとりで演出面の統一を切り盛りするのはたぶん無理なので、サポートで入ってほしい、と言われたんですね。作画監督もひとりじゃ大変だからということから、『YAIBA』の総作画監督の松原徳弘さんと新進の千羽由利子さんのふたり体制を組んで。あと、キャラクターデザインは、当時若くて勢いがあるアニメーターということで、馬越嘉彦さんにお願いして、という。
――結果的に、すごく力の入ったシリーズになっていますね。
村田 当時、TVシリーズは社内班以外に、社外のスタジオにグロスでお願いすることが多くて、数社をローテーションで回すので、全体を統一するための総作監の作業がすごく大変だったんです。それは演出面も一緒で、各話演出さんがチェックしたあとの素材をさらに社内のメインスタッフで統一して、とにかく直せるだけ直すっていうやり方で。しかも、当たり前ですがTVシリーズなので、毎週締め切りがやってくる。そこに間に合わせるために、効率よく分担する必要があります。絵コンテチェックとポイントの話数のレイアウトチェック、音響・編集関係は高橋さんが担当して、それ以外のすべての絵のチェック、レイアウトや原画のチェックや演出修正は僕のほうで引き受けるというような体制を、作品を作っていくなかで組み上げました。各話演出だけやっていたときにはないしんどさがありましたね。
――ある意味、自分の出せる力をすべて出し切った、最初の作品だった。
村田 そうですね。いい意味でボロボロになりながらやっていました。自分が、作画監督に最良の素材を回すための最後の防波堤になっているので。どこまで作品のクオリティを担保するか。それを問われ続けているような感じがありました。絵やアクションのタイミングの管理もそうですし、それと並行して美術設定を描いたり。
――美術設定ですか!?
村田 「このエピソードにしか出てこない」っていう美術設定がたくさんあるんですけど、それを全部美術さんに発注している時間がない。資料はあるので「この場面の城はこういう設定です」と自分で図面やパース画を描いたり。
――これまでの経験が生かされた現場でもあったわけですね(笑)。
村田 そうですね。とにかく作品を支えるためにやらなければいけないことを全部やりました。あのときの経験は今の仕事に生きていますね。自分で「この表現はどうすればうまくいくんだろうか」と、先回りしてシミュレーションしてみたうえでスタッフに対して指示を出す。いかに自分の指示を誤解されることなく伝えるか、という技術。そこは間違いなく生きています。そのあと、高橋さんのチームは『To Heart』とか『鋼鉄天使くるみ』『フィギュア17 つばさ&ヒカル』などを手がけることになるんですが、そのチームワークのベースを培ったのが『ベルセルク』でした。OLM的には『ポケモン』など、メインの子供向け作品とは違う系譜のラインが『ベルセルク』から始まって、しばらく同時並行で作っていた。そういう意味で、OLMという会社の歴史のなかでも特殊な一時期だったのではないかなと、振り返ってみて思います。
日文原文链接:
原网站Febri已闭站
日文网页原图:



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